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野の草花にとっての土と水と光のように、

ゆるやかに居られる場所がありますか。

カタクリの在り方

子どもたちと若者に思いを寄せる

20年前、日本はこれから難しい時代を迎えるだろうという論調はすでにあった。でもどこか他人事で、いずれ誰かが何とかするんだろうと思っていた。

20年が経ち、日本はこれから難しい時代を迎えるだろうという論調がますます強くなっただけだった。20年前にテレビに出ていた偉い人は今も偉い人として変わらずそこにいて、時間が止まっているような、でも残された時間は確実に減っているような、息苦しさにも似た何かを感じることが多くなった。

これからの時代を、今の子どもたちは、若者は、生きていく。
先を見通しにくい世の中に決まりきった道筋はない。成功や失敗の定義さえも百人百葉で、社会が決めた物差しと自分の中での意味づけとの間で柔軟に揺れ動く。流れに身を任せながら、手の届く機会を軽やかに掴み取っていく。自由だけど全て自分次第な、そんな個の時代。

20年前に剥き身で社会に飛び込み、長い時間をかけてやっと気づけたことがある。探究することの大切さ、感じ・考えることの大切さ、対話し分かち合うことの大切さ、夢を持つことの大切さ。自分も時代をつくる当事者だったということ。無為に時間を浪費してしまったという少しばかりの後悔。でも、気づいたきっかけはほんの些細な偶然で、何か壮大なイベントがあったわけでは全くなかった。

もっと早く、例えば社会に出る前に気づけていたとしたら、自分はどんな道を選んだんだろう。どんな夢を持っていたんだろうと思わずにはいられない。

だからせめて、これから個の時代を生きていく子どもたちと若者に、大切なことに気づくきっかけとなる場を届けようと思う。人は誰かが決めた物差しで測られる存在ではないし、誰かの手で作られるものでもない。野の草花と同じように、豊かな土壌があれば内に秘めたその人ならではの力をじっくりと、ゆるやかに育むことができるはずだ。

地域に思いを寄せる

地域も手強い時代を迎えている。

ある離島の漁村では、世帯数が20に満たない中で、数少ない現役世代が暮らしと伝統と事業を守っている。でもそこに悲壮感はなく、SDGsみたいな言葉も存在しない。やればやるほど時間とお金が減っていく非合理とも言える世界。そう感じたと正直に伝えたら、「親父が大事にしてきたものだから、俺も守りたいと思ってるやってるだけだよ。」と笑った。理屈じゃなく、誰かのために「よし、人肌脱いでやるか。」と言える人。何故か、人間としてこれ以上ないくらいの豊かさと力強さを感じた。

でも、同じような思いを持っているはずの他の集落の人との間にはわだかまりが少なからずあるとも聞いた。

土地との対話、先祖との対話はできても、人同士の対話はやはり簡単なことではないのだ。

ある離島では、島内10数箇所の地区ごとに住民自身がまちづくりを行うための組織があり、そこに暮らす人たちが協力し合って様々なことに取り組んでいる。思いのある人が立ち上がって気持ちを伝え回る中で、住民同士の意思疎通や合意形成の難しさに直面していた。

地域も若者と同じだ。これから新しい時代を生きていく。それが人によって成り立っている以上、一人一人が考えること、対話すること、他者を受容することの大切さは少しも欠けることはない。

​だからせめて、共に汗をかきながら、その願いをかなえるためのいくつかの考え方や、対話する大切さを私たちなりに伝えたい。

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組織に思いを寄せる

人が集まるところを組織と呼ぼうと思う。企業も、団体も。

組織が置かれている環境は複雑性を増している。もっと良い組織になるためには何を捨てて何を導入すればいいのか。でも、お手本となる組織はあれど、誰かが外側から問題を潰したとて持続的な変容に至ることは稀だ。
 
以前はノイズだったはずの人間性・個性・意思といったものが生きた組織をつくるための鍵だと見なされるようになった。
もっと良い組織になるために「自分たちには何ができるか」。
そこに人がいるのなら、その出発点は人同士が豊かな関係を築くことにあるのだと思う。

 

ここでも、大切になってくるのものは同じだ。

だからせめて、共に汗をかきながら、その願いを叶えるためのいくつかの考え方や、対話することの大切さを私たちなりに伝えたい。

対話するということ

人同士で対話する。土地と対話する。そこにあるもの達と対話する。自分自身と対話する。対話とは、何かを感じ、自分の中にあるものを吐き出して、自分とは異なる存在を認知し、自分を繰り返し問い直していく過程そのものだと思う。
 
ハッと目が覚めるような深い気づきに出会う瞬間なんて、いつ訪れるかは分からない。人生に一度二度出会えれば幸運なのかもしれない。

 

対話の場をつくるということは、その気づきに出会う偶発を0.1%でも増やしたいという願い。

決めたい、判断したい気持ちを思い切って手放して、その時その場所でしか見つからない「かけら」を共に探していく。

 

場をつくることは誰にでもできる。若者のことを思う時、地域のことを思う時、組織のことを思う時、場をつくることは一番シンプルな入り口だ。

私たちの在り方

とある山間地域で檜(ひのき)の加工を営む人は、檜を伐採することと檜を植林することの両方を行っていた。今日植えた檜が伐採出来る状態まで育つのには長ければ400年かかると言っていた。
 
当たり前だけど、育った檜を自身は見ることはできないし、もしかしたら檜の林そのものが無くなっている可能性だってある。

とある北関東の山の中で見つけたカタクリの花は、種が土壌に蒔かれてから芽を出すまでに8年から10年かかる。
人間からするととても長い時間だ。でも、誰かに肥料を与えられるわけでもなく、自分の内側にあるものをじっくりと育み、やがて発芽する。

数ヶ月、数年という時間の中で効率よく力を伸ばしていくための学習や研鑽はもちろん尊いものだし、人間の素晴らしさの一つだ。だけど、もっとじっくりと、ゆるやかに、かろやかに自分自身で育んでいくものがあってもいい。


カタクリの花が、檜が、「早く成長したい」と自覚的に考えていただろうか?
 

だから私たちは、対話と場づくりによって、子どもたち・若者・地域・組織が気づき、「自分達の意思」でゆるやかに変容していくことを後押ししたい。
 

生きとし生けるものが育つには、土と、光と、水が必要だ。
私たちの存在は、近所の公園にある花壇のようなものかもしれないし、野山のにある野っ原のようなものかもしれない。誰のものでもない、でも誰もがただそこに在ることのできる土壌のような存在で在りたい。

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